これから忘れられる場所で、彼らはすでに忘れられていた(後編)

 前編から続く


富岡町は、楢葉の北隣りにあり、商店が多く存在していたので、楢葉の人間は皆すこしいいものを買おうという日には富岡に出かけた。富岡町は夜の森の桜が有名だが、私はこのはっきり言って東日本でもっとも素晴らしい桜並木の存在を、震災がなければ知ることはなかっただろうと思う。

富岡も、楢葉に負けず劣らず、中央の歴史には書かれない「空白の町」なのだが、細かく地図を見ていくと、この町には「日本で一番小さな灯台」があるらしいと知った。それを知ったのは2011年秋のことだ。

「小良ケ浜灯台」という。

この灯台は、第一原発と、第二原発のちょうど中間に位置していて、地図の感じからすると、断崖絶壁の入り組んだ海岸がちょうど乳首のように出っ張っている場所に建っている。

地図を見ていての推測でしかなかったが、多分、2つの原発を同じ場所から同時に見ることができる唯一の場所に思えた。

その秋に私は富岡町の北隣にある大熊町の住民・吉田邦吉さんと知り合った。

彼は警戒区域(当時)の通行証を取ることができる双葉郡の住民なので、私は彼に何度か同行して、双葉郡の様子を見せてもらっていた。

「こんな事故が起きて大変なときに、ヘンな頼みで悪いのだけど、小良ヶ浜灯台を見たいので、案内してもらえない?」と頼んだ。すると彼は「小良ケ浜の灯台……、行ったことないです」と言った。

ちなみに言うと彼、吉田くんは震災後作家になった。双葉郡の語り部として取材をして書いている。知り合った時にはすでにかなりの歴ヲタであり、なかでも戊辰戦争に関する知識は20代(当時)の若者としては突出したものがあった。また学習塾を経営して子どもたちにも教えていたので、双葉郡のことは彼自身が子供に対して社会科の授業などをする立場であり、普通の双葉郡の人間よりは細かく知っていたはずだ。その彼でも、小良ケ浜灯台の場所がわからないという。

2011年の11月、雨の日、私は吉田くんの運転する車で小良ヶ浜を目指した。すぐ近くまでは来ているはずなのだが、灯台に入るための東に折れる道が見つからない。携帯の電波は圏外、道は陥没して脱輪の危険がある。しかも雨である。ここで遭難すると吉田くんに迷惑がかかるので、私は小良ケ浜灯台を諦めて、引き返した。


灯台にたどり着くことができたのは、翌2012年の5月のことだった。灯台に至る道は廃道のようになっていて、かなり注意深く見なければ見落として当然のような佇まいだった。しかもある地点からは車から降りて徒歩で進まなければならない。

生え放題の背の高い草をかき分けて進む。10分近く歩いても、たどり着かないので、不安を覚えた。ふと、目を落とすと、牛が死んで白骨化していた。


灯台の立つ場所からは、たしかに、第一原発と、第二原発を肉眼で確認することができた。

だがここで私が、心を奪われたのはこの灯台ではなかった。

灯台の裏手にひっそり佇んでいたちいさな「鎮魂碑」を私は見つけたのだ。

雑草に埋もれたこの鎮魂碑に近づいて、説明書きを読んだ。

太平洋戦争のさなかである昭和18年(1943年)、玉砕したアッツ島から一機の飛行機が横浜の海軍航空隊の基地に帰還する途中、濃霧によって視界を失い、この海岸の絶壁に激突した。乗組員15人全員が死亡した。

石碑には乗組員の名前が併記されていた。

死んだのは富岡町とは縁もゆかりもない人たちだが、遺族と富岡町の人たちの心尽くしにより、鎮魂碑は1993年にこの地に建立された。

除幕式の日のことを、県紙の「民報」「民友」の2紙で小さく報じられているのを後日私は見つけた。だが、鎮魂碑のことが公に記録されたのはそれっきりだろうと思う。

関係者しか知らない「鎮魂碑」。だがここでは戦争という災禍に巻き込まれた15人が命を落としている。これは事実なのだ。


石は紙よりも強固なメディアだ。日焼けや酸化などの劣化に強く、火にも水にも強い。だから、石に文字を刻むということは、紙に文字を刻むよりも「残したい」という強力な気持ちがあるのだろう。ここで死んだ15人をできるだけ長く記憶してほしいから、こういうふうに石に刻んだのだろう。しかし、その石の存在そのものが忘れられてしまったら、刻まれた文字に思いを致す人がいなくなってしまったらどうだろう。

この、もう立ち入ることが許されない「警戒区域(当時/現・帰還困難区域)」には、忘れられた15人がいまだに取り残されているのだ。


今日、新御茶ノ水駅近くで用事を済ませて、神田川べりにある定食屋で食事を摂った。

定食屋の窓からは聖橋が見える。

聖橋のアーチを見た時にふと記憶が25年前にフラッシュバックした。小学6年生の冬、私は父の車で「都会」に来ていた。中学受験を目前に控えた、進学塾の模擬テストのためだ。

車を停めた場所から受験会場に向かう途中、私たちはふたりで聖橋の上を歩いた。耳にはやはりウォークマンをしていて、それは父から買ってもらった2台めだった。オートリバース機能と録音機能が付いている豪華版で、色は黒だ。

この頃にはビートルズのジョン・レノンが殺されてもうこの世にはいないことを私は知っていた。そして、父が家にほとんど帰ってこなくなっていたことを私は気にしていた。

そして三郷は、この時期に知名度が一瞬全国区になった。『コンクリート殺人事件』と呼ばれている少年犯罪の犠牲になり、1ヶ月以上にも及ぶ監禁リンチの果てに殺された被害者の女の子が生前暮らしていたことで、連日報道されたからだ。死んだ高校3年生の女の子の住まいは、同じ三郷でも私が住む場所とは離れていたが、それでも男たちに拉致された日のことなどがうわさで流れてきた。そして、となり町の吉川高校では校舎のトイレで刺殺事件が起こった。

中学二年生になっていた姉と同じ学年だった向かいの家の女の子は、ヤンキーの先輩に八潮に拉致されてリンチされたことがきっかけで、誰にも告げずに引っ越していなくなった。

なにか、幸せな時代が終わろうとしているということを私はうっすら感じ取っていた。

「あ、電池がきれた」

と、小学校6年生の私は言った。

「パパ、電池ある?」

「駅のキオスクで買おう。映里、ちょっと電池貸してみな」

と父は言って、私に使いきった電池をウォークマンから出させた。

電池を受け取った父は私を抱き上げて、聖橋の欄干から、神田川の川面が見えるようにしてくれた。

父は電池をひとつ、橋の上から神田川に落とした。

単3の乾電池は、緑色をした神田川の水面に音もなく吸い込まれていった。

「映里もやるか?」

と聞かれたので私はうなずいた。

私は、乾電池をひとつ、またひとつ、橋から落としていった。

今日、聖橋を見ながら定食を食べている私は、あのころに毎日会っていた友達の消息を誰ひとりとして知らない。

母は死に、父は新しい家庭を持ち、私は三郷を離れ、「都会」のまんなかでひとりで暮らしている。

あの日の橋の上の私たちを記憶している人は誰もいない。

電池は川底に沈んだままだろうか?

100年後、今この定食屋にいる人の存在は全員、子孫からも忘れられているだろう。だからきっと、変わらないのはこの川だけだな、なんて思いながら、ひとりの昼食を済ませた

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